2016年7月29日金曜日

命の価値判断とは

こんばんは。

このところずーっと相模原障害者施設殺傷事件のことでモヤモヤざわざわしていたので、今日はそのことをテーマに記事を書きます。

信じがたい事件の凄惨さに最初は言葉が出ませんでしたが、ちょっとずつ言葉にできてきたような、できてないような…

とりあえず、様々なSNSなどを見ていると何だか議論の方向性が「障碍者の存在価値の有る無し」になってきて、私はもう「ちょっと何言ってるかわからない」状態です。

なんでそんなことを他人にジャッジされないといけないのか?

私の立場は自閉症スペクトラムの診断を受けた次女の親であり支援者なので、立場的にも心情的にも到底受け入れられないですし、正直、怒りを通りこして気持ちが悪くなったのですが、しかしよくよく思い出してみると「健常者」の価値判断の残酷さと差別性にはこれまでに散々出くわしてきたのでした。

「あなたには価値がある」

「あなたには価値がない」

健常者障碍者関わらず、そんな勝手なジャッジを、人間に対する値踏みを、日常的に誰かが誰かにしている。

そんな世界に私たちは生きています。

私自身も無意識のうちに、どこかで誰かにやってしまっている気がします。

そのことを突きつけられたような気がして、また、子どものことで周りから受けた様々な暴言を思い出して、昨日今日は呼吸もままならなかったです。

「障碍者はいなくなった方がいい」

今まで殺されこそしませんでしたが、オブラートに包んだ状態で、様々な投げかけ方で、それは今までに日常的に私たち親子にぶつけられてきました。

そして一つ思い出したことがあります。

私たち親子と少し関係性が遠い人ほどフラットに関係性を築けたり身になるアドバイスをくれることが多く、逆に関係性が近い人、近親者ほど理解や思いやりのない言葉を吐いたり、背景をよく知らないまま施設に入れろだの(実の父に言われました)、療育にもっと力を入れなさいだの、「普通であること」を諦めないでだの、タオさんがしっかり育てなかったから次女ちゃんを自閉症にさせたんだだの言ってきたりしたなって。

まぁ確かに私もめっちゃ頑張り屋さんてことはないしすぐへこたれるタイプなので、そこを指摘されてきたのかもしれませんが、

当時の私はそういった言葉を間に受けすぎて、「自分(母親)に原因があるから次女が自閉症になってしまったんだ」と自分を責めたり、ぶっちゃけ「次女を連れて今死んでしまおう」と思いつめた日もあります。

今はぜんぶ

「勝手なこと言わないでください」

で済むことなんだなと吹っ切れてしまいましたが(笑)


彼らはよくよく突き詰めて考えてみると「自分に迷惑をかけるな」以上の意味のあることを言ってないか、「次女や子どもたちのためを思って言ってあげてる」と本気で信じて疑っていないけど、実はその言葉に潜む自らの差別性と加害性にまったく気がついてないか、もしくはそのどちらもか…

そもそも障碍者支援や発達障碍への行政の対応や療育についてあまりよく知らないか、なまじ知識があっても当事者性のない立場から言ってる。

実際に取り組むのは私だし。そして次女だし。
かかるお金を出すのも私や元夫。

ってことは、
「あなたたち基本的に関係ないやん」と(笑)。


それに療育やリハビリで何が上手くいくかなんて取り組んでみないと分からないことだらけで、そもそも「上手くいく」(この言い方もよくよく考えてみると「健常者様」目線のすごい勝手な評価ですが)保証もない。

ほとんどのケースの発達障碍は脳由来のもので、訓練で克服できることもたくさんありますが、どうにもできないこともあるんです。

いずれにせよ私だけが自分のあり方を猛省して自分自身を鞭打ってもあまりいいことはない、と気がつきました。
今できることをやるしかないです。


しかしながら、何よりもまず私が反省するべきことは、そういった近しい他人の勝手な言葉を内面化して、「自分が何とかしなきゃ」と背負いこみ、すぐ隣にいる「自分が何ともできない」特性をもつ次女に「勝手に憎しみを抱いたこと」だと、自分に対して思います。

次女にしてみたらたまったものではないよね…
本当にごめんなさいと思います。


そう気がついてからは、ほんの少しだけ、本当に少しだけですが、肩の荷を自分で降ろせたような気がしました。

私の場合はですが、よく考えたら、次女と生活すること自体のストレスだけならそんなにないんです。
対応次第で手放すことが可能なものも、よく考えてみるとたくさんありました。

結局私が苦しんでいるのは、社会との折り合いのつけ方と、私自身の差別性だったのだなと思いました。


次女がこの先何かに一番苦しむとしたら、私や近しい人が、次女の特性のことでイライラしたり思いつめたりして、結果的に彼女に当たってしまう時ではないかなと思います。

他は今のところ概ね幸せそうですよ(笑)   多分ですけど。

次女は時々私から見てよく理由が分からないまま泣き叫ぶことはありますし、特性ゆえに迷惑をかけてしまうことは確かによくありますが、彼女自身のしたことで誰かを不幸にしたことも酷く傷つけたことも、私が知る範囲では今のところはありません。


「彼女が生きてて何か悪いことあるの?」

心からの疑問と怒りをこめて、そう思います。

事件の容疑者だけではなく、障碍者とカテゴライズされている人の存在価値を勝手に決めた人すべてに。


そして最後に、一番言いたかったことをまとめさせて頂きます。

私がもう一つ思ったことは、相模原のみならず障碍者施設の職員の方たちは、親の私と同じように「健常者」目線の社会から「障碍者を何とかしろ」と言うような無茶な押しつけをされてきていなかったかということです。

そしてそこに集って生きる障碍者の方たちも、社会から勝手な価値判断のジャッジを受けてそこにいるのではないだろうか。

身近な支援者の方たちも、社会と障碍者の間に生まれる軋轢に疲弊しきって、障碍者施設に家族を送ったけど、社会全体で障碍者の方の居場所を広くつくっていたなら、隔離された施設という空間に家族を送らなくても済んだのではないだろうか。


私は単純に「社会が悪い」と言って済むような問題ではないと思ってます。

障碍者だって人間。
障碍者の親兄弟だって人間。
障碍者施設の職員だって人間。
そして障碍者の事情を知らない社会に生きる人たちも人間。

みんな完璧にはなれないし、聖人君子ではない。

それぞれそこで生きてみないと分からない実情、利害や感情の問題も確実にあります。

杓子定規に「差別をやめよう」と言ってみても解決できない現実が立ちはだかっていることは、私もよく知っています。


それでも。

「せめて、他者への値踏みを、存在についての価値の有る無しを、勝手に決めるのだけは
まず止めませんか?」

と言いたいのですよ。

それは、あるがままの自分自身がこの社会で生きていくことを良いことなんだと認めることにも繋がります。

それだけでだいぶ生きていきやすい社会の土台が出来上がるのではと思います。


いまやどこもかしこも戦場のような社会なので、机上の理想論かもしれませんが…

格差があった方が都合がいい立場の人もたくさんいますしね。


それでも私はさ、

「この世界に生まれてきた人すべてが、喜びや楽しさ、ハッピーな要素を手にできる社会の方がいいに決まってるやん?」

って思いますよ。


それは誰かを貶めたり損を強いたり殺したりしないと実現は難しいことなのでしょうか?

今改めて、いろいろな人と一緒に、考えてみたいところです。

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